1月に銀座で行った初の個展が大盛況のうちに無事終了しました。これもひとえに皆様の応援のおかげです。心より感謝しています。教室の生徒さん、書道の先生方、書道仲間、遠方からきてくれた旧知の方、通りすがりに来場いただいた方々からいろいろな感想を直接聞くことができて大変うれしく思っています。また多くの方から「感動した」との言葉をいただきとても勇気づけられました。ともすれば書道作品は読めないものが多く難しい印象を与えてしまいますが、今回の展示では一見しただけでは読みづらい隷書体を多く用いたにもかかわらず書道を習っていない方の心も動かすことができ、書道の可能性を感じることができました。今回多くの方のお世話になり、ひとりでは何もできないことを痛感し感謝するとともに、自分にしかできないことをもっと探求していければと決意を新たにしました。
以下個展の報告です。
個展の目的:
この度新春の銀座で小ぢんまりとした書の個展を開催します。何気ない暮らしのなかで書とことばを体感できるような作品を目指しました。
もともとは生活の一部として床の間に飾られることの多かった書作品ですが、明治期以降生活空間から切り取られた会場芸術としての書が発展し、また部屋の洋風化によって書作品は生活から切り離されてゆきました。以前は自宅の床の間や書画会で書画鑑賞を楽しんでいましたが、明治期に西洋式展示方法が入ってきて、真っ白の何も無い空間で壁面に掛けられた額装作品を鑑賞するようになりました。明治以前の書画は挿絵や家具の一部といった装飾としての機能を持っていましたが、明治以降は純粋美術(芸術的価値を純粋に目的とした美術)が志向され、額縁(フレーム)の内側のみが作品の本質で、額縁や額縁の外のものは本質的ではない不随物とみなされるようになりました。
戦後七〇年間会場芸術、純粋美術としての書が発展してきたなか、今回小さな個展を開くにあたり、フレームの内側の作品空間とフレームの外側の現実空間の断絶が少しでも緩やかになるような展示形式にしたいと思うようになりました。普段書を鑑賞しない人にも書のある空間を馴染みのあるものに感じてほしいという思いからです。本来自然の空間では木々や土や生き物や大気などが連続して存在していますが、白い展示空間の壁に掛けられた作品とそれを見る人との間はフレームによって遮られていて連続性がありません。そこで今回、作品から見る人の皮膚まで緩やかに空間が連続するように、本質的でない不随物とされたフレームの外側に物質的な手触りをもたせてみました。フレームの手触りを出すために、表具も軸装を中心にしつつ、限りなく色を少なくして、洋風の部屋にも合うように白を基調としました。
題材とした言葉も、明確な言葉の意味をもちつつも多様な解釈が可能な禅語を中心に選定しました。同じ作品を飾っていても、見るたびにそこに自己が投影され、印象や意味の変化していく様を楽しんでいただければ幸いです。書というのは言語表現であると同時に視覚芸術でもあります。つまり抽象的な概念を「もの」として観て体感できる唯一の芸術様式とも言えます。そんなことばの身体も体感していただければ幸いです。
《無為》Mui
1.自然のままで、作為的でないこと。
2.生滅・変化しないもの。自然。絶対。
That which is natural and not artificial.
That which does not perish or change. Natural. Absolute.
《万寿》Manju
寿命の限りなく長いこと。また、長生きを祝っていう語。
a celebration of one's longevity.
《廓然無聖》Kakunen Musho
「廓然」とは、雲一つないカラリと晴れわたった空のようにサッパリとしてなんのとらわれもないことの形容で、「無聖」とは、聖なる崇高な真理などないということ。不満や疑念などのわだかまりがなく、聖なる真理などないと悟ること。
古代中国の南北朝時代の梁の国の武帝が、インドから来た達磨に聖諦第一義のことを尋ねたという故事から。(『景徳伝灯録』「三」)
Empty, without holiness.
To be as clear and unclouded as a cloudless sky, and to realize that there is no such thing as holy and sublime truth.
To realize that there is no such thing as a holy truth, without any discontent, doubt, or other such aggravations.
《圓融三諦》Enyu Santai
仏教の言葉で、空、仮、中の三つの真理がそれぞれの立場を保ちながらも、互いに溶け合っている状態が同時に成り立っていること。
「円融」はお互いに融合しているが、それぞれ立場を保ちつつ妨げになっていないこと。
「三諦」は空、仮、中の三つの真理のこと。
integrality and threefold truth (all things are void; all things are temporary; all things are in the middle state between these two)
《巌花》Iwao no Hana
「巌(いはほ)に花の咲かんが如し」と申したるも、鬼をば、強く、恐ろしく、肝を消すやうにするならでは、およその風体なし。これ、巌なり。花といふは、余の風体を残さずして、幽玄至極の上手と人の思ひ慣れたる所に、思ひの外に鬼をすれば、めづらしく見ゆるる所、これ、花なり。しかれば、鬼ばかりをせんずる為手は、巌ばかりにて、花はあるべからず。(世阿弥『風姿花伝』「花伝第七 別紙口伝」より) 「岩のようなゴツゴツした鬼の表現のなかに、時おり花のようなたおやかな風情を醸し出す」の意
The expression of the rugged, rock-like demons sometimes has a graceful, flower-like air. (The Flowering Spirit by Zeami Motokiyo)
《瑞気集門》Zuiki Shumon
めでたいことが起る兆しの気が、玄関先に集まる。
The gathering of auspicious signs at the gate of a house.
《観自在》Kanjizai
すべての事物を自由自在に見ることができること。
to see things correctly and freely at a boundary free from the attachment of hesitation.
《不識》Fu-Shiki
思慮分別を超越した境地をいう。「帝曰く、朕に対する者は誰ぞ、と。磨云う、不識と」。梁の武帝が「私の前で仏法を説いている者は誰か」と問うと、達磨は「不識」と言った。聖者とか愚者とかの対立世界を超えた存在であることを言ったもの。(『碧巌録』一)
There's no telling. The idea is not that there must be understanding with knowledge. There is no knowing. Implied is the idea that nondiscrimination is most intimate!
Emperor Wu of Liang asked the great master Bodhidharma, ʻWhat is the highest meaning of the holy truths?ʼ Bodhidarma said, ʻEmpty, without holiness.ʼ The Emperor said, ʻWho is facing me?ʼ replied, ʻI don't know.ʼ
《紅炉上一点雪》Koro jo itten no yuki
紅炉上に一点の雪。人それぞれに備わっている仏心も、分別の心がひとたび現れれば、紅炉の上の一片の雪のように消えてしまう(『碧巌録』六十九)。燃え盛り智慧の光をもった心(紅炉)には、ひらひらと煩悩(雪)が寄ってきたとしても、瞬く間に消え去るだろう。または、はかないことのたとえ。
A piece of snow on a red hearth. The Buddha-mind that each person possesses will disappear like a piece of snow on a red furnace once the mind of discernment appears. Even if troubles (a piece of snow) were to come fluttering to the burning heart (red furnace) with the light of wisdom, it would disappear in the blink of an eye. Or, a metaphor for transience.
《聴雪》Cho-setsu
雪の音を聴くこと。 雪の気配を感じ取るほどの心静かな心境を表わす言葉。
To listen to the sound of snow. A word that expresses a state of mind so quiet that one can sense the presence of snow.